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外交の現場を行

◉第8回◉ 「隻脚の外交官」の真実

前代未聞の醜聞が明らかになった朴槿恵・韓国大統領と、彼女が政界デビュー前に会食したことがある。

1992年頃だ。当時、私は毎日新聞ソウル特派員だった。場所は、新羅ホテルの韓式レストラン。付き添いは老女ひとりだった。どういう人だったのか不明のままだ。食事に同席することもなく、静かに別室に控えていた。

二十数年後、大統領になった彼女を、私は「羅針盤なき外交」と批判した。

雑誌「正論」2016年1月号だ。「隻脚の外交官・重光葵が韓国を撃つ」と題し、韓国の現状を「田舎民族主義」と批判した。それは今回の醜聞発覚で、図らずも的中した。外交政策まで「秘線の女」に翻弄されていた可能性も指摘される。

一方、重光葵(まもる)は、流行語で言えば「地味にスゴイ!外交官」である。今回は、その真実を語りたい。

<現場①神奈川県湯河原町「重光葵記念館」>

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JR湯河原駅からバスに乗り、終点の奥湯河原で降りる。10月下旬、湯の町は肌寒い。坂道を数分のぼる。左手に灯りのついた瀟洒な別荘が見えて来た。重光家の旧別荘だ。隻脚の外交官・重光葵は1957年1月26日に、ここで急逝した。享年69。大分県生まれの男の寿命が途切れた。

重光は、主に以下の6点で有名だ。

①朝鮮人テロリストが起した上海天長節爆弾事件(死傷者多数)で負傷し、右脚を切断した。

②東条内閣の外相として、大東亜会議(1943年11月)の開催に奔走した。

③米戦艦ミズーリ号上の降伏文書調印式(1945年9月2日)に、日本全権として出席し、署名した。

④ソ連の画策により東京裁判で、A級戦犯として有罪(禁固7年)判決を受けた。

⑤ソ連との国交回復交渉で、歯舞・色丹の「2島返還論」を受け入れた。(鳩山首相の反対で頓挫した)

⑥1956年12月18日、国連加盟演説。「日本は東西の架け橋になりうる」

彼が詠んだ短歌。「霧は晴れ国連の塔は輝きて 高くかかげし日の丸の旗」

重光が急死したのは、この国連演説から約40日後だった。

記念館で特記すべきは、書斎の机の横に置かれた彼の右脚の義足だ。重さ約10キロもあるという。膝の部分に、小さく「恩賜」の表示があった。右脚切断の際、昭和天皇から授かったものだ。重光は天皇を敬愛し、日本の国益のために、生涯を貫いた外交官である。記念館はきれいに管理されていた。私は、やや安堵した。

<現場②上海・虹口公園「天長節爆弾事件」>(写真は重光葵)

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上海天長節爆弾事件を記録した重光の口述書「隻脚記」は、山口県立図書館に所蔵されている貴重な文書だ。

「式台の上で野村少将と思うが、『爆弾!』と叫び『二発目が来るぞ!』と大声で叫んだ」

記述はきわめて緻密であり、修羅場で起きた出来事を沈着冷静に記録しているのは、驚くほどだ。犯人が朝鮮人であることを知り、事件が中国大陸ではなく、朝鮮の局地的な影響に留まることを、外交官として瞬時に判断した。さらにすごいのは、次の記述だ。「虐待暴行を加うる如きは、一切厳重に取り締まってもらいたい」。即座に、警察署長に指示したのである。

この記録を通読して驚嘆するのは、犯人である朝鮮人への「恨み」が一言も語られていないことだ。それどころか、別府療養中に訪ねて来た二男が「仇を取ってやる」と言うと、重光が「朝鮮人がみな、悪いのではない」と諭したという記述がある。つねに普遍的価値から世界を見ていた重光の面目躍如たる部分だ。

重光は戦後、東京裁判という「勝者の裁き」に引き出されたが、冷静に対処して「勝者の裁き」を超えた人格を法廷で堅持した。

昨年9月、東京都世田谷区にある重光の甥(兄の長男)の晶(元ソ連大使、故人)宅を訪問し、遺族から手書きのメモ数点を見せられた。そこには晶夫妻が1954年ロンドンで訪ねた「ハンキー卿の思い出」と題する文書もあった。ハンキー卿は、チャーチル戦時内閣の国務大臣だ。彼は夫妻に「戦犯裁判は行ってはならない裁判だ」と語った。重光の外交が、戦時中の英国からも高く評価されていたことを示す証言だ。ジョゼフ・グルー元駐日米国大使やバトラー英外務次官等から、重光を援護する口述書が東京に届いたのも、その証左だ。

重光がA級戦犯として自宅から連行されたのは、昭和21年4月29日だった。ちょうど14年前の昭和7年同月同日、重光は上海で爆弾投擲による右脚切断の重傷を負ったという因縁がある。

「爆弾は又落ちて来し 目出度かるべきその同じ日に」

日記に記録された短歌は、彼の無念を伝えて余りある。

<現場③韓国ソウル市瑞草区「尹奉吉記念館」>

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重光を負傷させたテロリスト・尹奉吉(ユン・ボンギル)の記念館は、ソウルの地下鉄「良才市民の森」駅から、徒歩5分の場所にある。私が訪れた昨年10月中旬、記念館には教師に引率された中学生たちの姿が目立った。1989年、ソウル五輪の翌年に記念館は建てられた。

1階右部屋の展示には、強い怒りを感じた。爆弾事件の死傷者の写真が、個別に展示されている。「全身に24個の弾片を浴びて死亡した白川(義則)大将」「片目を失明した野村(吉三郎)中将」「片足を切断した重光(葵)公使」といったありさまだ。この事件では、上海日本人居留民団会長の河端貞次(医師)ら民間人の死傷者も出た。しかし民間人の被害は隠蔽されている。

このような歪んだ「愛国教育」を受ける中学生たちは、どのような人間に育つのか。彼らは「夜郎自大の自滅の道」を歩むしかないと、私は確信する。韓国の現状を「田舎民族主義」と見る私の観点は、今回の朴槿恵スキャンダルで、図らずも立証された形だ。

2013年の3.1独立節記念演説で、朴大統領は次のように述べた。

「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、千年の歴史が流れても変わらない」

この歴史観を、故郷・国東半島の墓で眠る「隻脚の外相」は、苦笑しながら聞いたに違いない。

重光の功績のひとつは、インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議(1955年)に、日本代表を派遣したことでもある。昨年、安倍首相は同60周年会議に参加したが、朴大統領は招待を受けていたのに欠席し、南米に出かけた。「田舎民族主義」にとらわれて、自国を飛躍させる世界観に欠けていたのである。

<現場④大分県立杵築高校>

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重光は心不全で急死する11日前の1957年1月15日、故郷訪問の最後に、母校である大分県立杵築高校を訪れた。その際、校長室で所望されて一枚の揮毫を残した。「志四海」。これが重光の絶筆である。

「志四海」とは何か。

杵築高校のホームページに、以下のような説明がある。

「『四海を志す。志が全世界を覆う。志を全世界に及ぼす』という意味です」

重光の揮毫を前にして、私は高校生たちとともに自問したい。

日本国の「志」とは何か。世界を覆う日本国の「志」とは何か。全世界に及ぼす日本国の「志」とは、何なのだろうか?

「願わくは御国の末の栄え行き 我が名さけすむ人の多きを」

降伏文書調印式の朝、重光がしたためた短歌の複写が手元にある。重光葵はなぜ屈辱的な調印をしたのかと人々が蔑むほど、立派な国になってほしい、という彼の気持ちが込められている。私たちは「隻脚の外交官」の熱い思いに応えねばならない。

下川正晴の顔写真 (2)  下川正晴(しもかわ・まさはる) 1949年、鹿児島県霧島市生まれ。大阪大学法学部卒。毎日新聞ソウル、バンコク特派員、論説委員などを歴任。韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短大教授を経て、文筆業。