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プノンペン 駆け足訪問記 (中)
5日の朝食はホテル2階のレストランでとった。7時にレストランで寺田恭子事務局長と待ち合わせ。どんな食材を選べば腹をこわすリスクが少ないのか、などのレクチャーを受けながらのバイキングの食事である。
私は実は約30年前、東南アジアの食事で一度、痛い目にあっている。新聞社の政治記者として竹下登首相に同行して1泊2日の日程で総理のフィリピン公式訪問に同行取材した時のことだ。大統領主催の晩餐会場で美味しい料理を山ほど食べた。「生水を飲んではいけない」という注意は守ったのだが、腹が下って大変な目に遭った。その時はなぜだかよく分からなかったのだが、緑色が鮮やかな野菜サラダをムシャムシャ食べたせいらしい。野菜は水で洗うから、サラダを食べれば生水を飲んだのと同じことになるらしいのだ。幸い軽い症状ですんだが、あるテレビ局クルー3人は重度の脱水症状となって首相と同じ飛行機で帰れなかった。そのテレビ局の社長が首相官邸に抗議しに来たという噂話も耳にした。相手国の立場もあって、当時は報道されなかったと思うが、水だけではなく生野菜にも気を付けなければいけないことを身をもって知った。
しかし、パキスタンのカラチで人材育成事業をこなして東京に帰ってきたばかりでプノンペンに「転戦」した寺田事務局長を見ると、何と野菜や果物をどっさり食べているではないか。私も同じ野菜や果物を取ってきて食べてみたら、これが美味しい。大きなキューリ、トマト、バナナ、ドラゴンフルーツやココナツなどはすべて瑞々しく、いくらでも入る。あの忌まわしい腹痛の思い出は、プノンペンの美味しい食事に上書きされ、すっかり払拭された感じである。生水だけは飲まず、ペットボトルの水だけを飲んだが。
コックさんが目の前でオムレツを作ってくれるサービスも良かった。刻み野菜や果物など、どれを入れるか、手真似、仕草で聞いてくる。全部入れてほしいと指差してこちらも手真似で頼んだ。これも美味しかった。食後のコーヒーが少しばかりドロッとしていたのが欠点といえば欠点だが、きっとそういう味なのだろう。十分に合格点をあげられる朝食だった。
◇
朝食後、寺田事務局長と地図を見ながらホテルの南西方面に歩き、「トゥール・スレン」と呼ばれる虐殺博物館を見学した。ポル・ポト支配下のクメール・ルージュ(カンボジア共産党)時代の民主カンボジア政府が政治犯収容所として使った施設で、1万2千~2万人を収容・拷問して殺し、確認された生存者はわずか12人だけという。ナチス収容所顔負けの残虐行為の現場をそのまま博物館として保存しているのだ。
当時は党中央の一部幹部が「S-21」の暗号名で呼んでいただけで一般には全く知られていなかった極秘施設で、名前はなかった。トゥール・スレンは地名で、建物は高校(リセ)の校舎。「革命に学問は不要」と教育を否定するクメール・ルージュの方針を恐れて、プノンペン市の高校から生徒が逃げ出し、いたるところに無人校舎が残っていたが、1976年4月ごろに、市内中心部にあるこの高校の無人校舎をポル・ポト政府が反革命分子の尋問施設として使い始めたという。
トゥール・スレンの北東端から白い塀沿いにグルっとまわって門に辿り着いたのだが、外から見ればごく平凡な建物にしか見えない。入場券を買って、日本語のツアーオーディオを有料で借り、見学をはじめる。門内には12人の生存者の中の2人が椅子に座って、パンフレットなどを売っている。朝8時前後という早い時間だったが、訪問者は思ったより多い。ほとんどが欧米人のように見えた。
A、B、C、Dの4棟と校庭部分に作られた最後に発見された死者を埋葬した墓、拷問に使用された体育器具や追悼碑が主な展示である。ツアーはA棟から始まった。教室の窓の鉄柵は錆びつき、鉄製のベッドに人型の印がついていたりする。便器に使った箱、縛り付けた鎖…気が滅入るような日本語の説明を聞きながら、それらの部屋を見るたびに気持ちが萎えてくる。拷問されて死んだ人の姿を撮った写真も展示されている。
尋問室で殺された人々は当初、校庭に埋められたらしいが、おいつかなくなると、チュンエクにあるトゥール・スレン附属キリング・フィールドで処刑、埋葬したという。
トゥール・スレンはベトナム軍によって白日の下に晒される。ウィキペディアは次のように描写している。
<1979年1月7日にベトナム軍はプノンペンを制圧したが、クメール・ルージュは全員撤退・逃亡した後だった。翌日、ベトナム人の従軍記者が異臭に気づき、この施設を発見した。A棟1階の尋問室でクメール・ルージュが撤退間際に殺害した14人の遺体があり、収容所全体では50人程度の遺体があった。また膨大な収容・処刑記録の文書があった。>
<ベトナムがカンボジアにヘン・サムリン政権を擁立。この収容所跡はベトナム側の「ポル・ポトからカンボジアを救ったのはベトナムである」という政治宣伝として利用される。わずか数日で外国のプレスに公開され、年内には博物館が設置された。>
「ポル・ポトの恐怖政治」を今に伝える残酷な物証だが、この「恐怖政治」の主は精神を病んでおらず、ごく普通の人間だったそうだ。ナチスと通底する薄気味悪さがある。
◇
帰国して約1週間後の11月14日、新聞を見て驚いた。ポル・ポト時代の残虐を裁く裁判の確定判決が11月13日に出て、2人の終身刑が確定したという記事が出ていた。毎日新聞ネット版【カンボジア/ポル・ポト派元最高幹部の終身刑確定/特別法廷が控訴棄却】の記事をコピペする。
https://mainichi.jp/articles/20161124/ddm/007/030/045000c
<【バンコク西脇真一】カンボジアの旧ポル・ポト政権(1975~79年)時代の大量虐殺を裁く特別法廷の控訴審は23日、人道に対する罪に問われた元ポル・ポト派ナンバー2、ヌオン・チア元人民代表議会議長(90)と、キュー・サムファン元国家幹部会議長(85)の控訴を棄却する判決を言い渡し、1審の終身刑判決が確定した。AP通信によると、コン・スリム裁判長は「両被告の重要な役割から終身刑の適用がふさわしい」と明言した。
特別法廷は2審制で、元最高幹部の確定判決は初めて。3年8カ月あまりの間に国民の4分の1に当たる約170万人を死なせたとされるポト派元幹部を裁く特別法廷は、大きな節目を迎えた。
両被告は2007年にイエン・サリ元副首相、その妻のイエン・チリト元社会問題相らと共に身柄拘束され、首都プノンペンから少なくとも200万人を強制移住させた「人道に対する罪」や大量虐殺などの罪で10年に起訴された。両被告は14年の1審で人道に対する罪により終身刑を言い渡されたが、無罪を主張して控訴していた。大量虐殺を裁く別の審理はまだ続いている。
政権崩壊から既に37年。トップのポル・ポト元首相は98年に死亡しており、イエン・サリ被告は13年に、イエン・チリト被告も15年に死亡した。長期化する裁判の中で、国民は複雑な思いで判決に接した。
「終身刑と聞いてうれしい。あの政権は狂っていた」。混乱の中で家族6人を失ったチプ・ティさん(73)は言う。5人が犠牲になったタン・ホーさん(60)も「この日を待っていた。残りの裁判をスピードアップさせてほしい」と話した。
特別法廷は、国内法廷を国連が支援する形で03年に設置が決まったが、政府内にはフン・セン首相ら元ポト派も多く、カンボジアは積極的でなかった。ある公務員の男性は「彼らのやったことに比べれば、判決はあまりにも小さな罰だ。次世代のリーダーや世界の指導者はこの悲惨な歴史を学び、こういうことが起こらないようにしてほしい」と語った。>
カンボジア特別法廷(ECCC)は1975~79年のクメール・ルージュ政権による虐殺等について政権の上級指導者・責任者を裁くため国連が乗り出して2001年にカンボジア裁判所特別部として設立されたが、調整に時間がかかったため、運営が開始されたのは06年7月。トゥール・スレンの犯罪は「第1事件」、それ以外の場所での重大犯罪を「第2事件」と分け、裁判の迅速化を図っているが、いまだに裁判が続き、生きている被告も90歳、85歳の超高齢となっている。
第1事件では2010年7月26日、元S21(トゥール・スレン)政治犯収容所所長、カン・ケク・イウに禁錮35年の1審判決が出されたが、未決勾留を控除すると刑は19年となるため、被害者や人権団体等から「大虐殺犯なのに刑が軽すぎる」と批判が出て、2012年2月3日の上訴審は1審判決を破棄、最高刑の終身刑判決を言い渡し、判決が確定した。
第2事件ではヌオン・チア、キュー・サムファンの2人に加え、イエン・サリ(元副首相)、イエン・サリの妻でポル・ポトの最初の妻キュー・ポナリーの実妹、イエン・シリト(元社会問題相)も起訴されたが、イエン・サリは2013年3月14日にプノンペンで死去。イエン・シリトは認知症のため釈放され、昨年8月22日にカンボジア西部パイリンで死去している。
人口800万人足らずのカンボジアで推計150~200万人もの国民を死に追いやった元凶、ポル・ポトは政権を追われた後、森に潜伏して抵抗を続けたが、1997年6月にカンボジア政府との帰順交渉に反対し、交渉に前向きだったソン・セン一族を皆殺しにしたことからクメール・ルージュ内の裁判で終身刑を言い渡され、98年4月に73歳で死去した。その8カ月後にヌオン・チュア、キュー・サムファンらが投降し、99年3月に残党が逮捕され、抵抗していた旧ポル・ポト武闘勢力は消滅した。しかし、西脇記者が書いているように、現カンボジア政権内にはフン・セン首相をはじめとして旧ポル・ポト派の実力者も多く、ポル・ポト政権の闇を暴く作業は実際には封じ込められたままと言っていい状態だ。
ポル・ポトは本名サロト・サル。1925年1月に中部コンポントム州プレックスバウ村のかなり裕福な農家に生まれた。姉は国王の夫人の1人となり、兄も王宮に関わる。サルは6歳で親元を離れ、プノンペンの兄のもとに送られ、僧侶生活をした後、王宮近くのカトリック系小学校、そして東部コンポンチャム州の全寮制ノロドム・シアヌーク中学校に学び、ほぼフランス語による教育を受け続ける。
ポル・ポト派ナンバー2のヌオン・チェアも27年に西部バッタンバン州の裕福な家庭に生まれた。イエン・サリとソン・センはベトナム南部コーチシナのカンボジア系地主、キュー・サムファンはコンポンチャム州の裁判官の家に生まれた。ポル・ポトの妻ポナリー、イエン・サリの妻チリトのキュー姉妹の父はプノンペンの裁判官でシアヌーク国王の祖父母の家族と親しく、シアヌークも子供時代の彼女たちをよく知っていたという。サルやサリを共産主義に引き込んだ先輩のティウン・マムとティーウン、チュム、プラシットを加えたティウン4兄弟はプノンペンの最も有力なノロドム王家のライバルという家柄で、4兄弟はそろってポル・ポト政権の閣僚を務めた。
最後にポル・ポトを失脚させ、派の実権を握った最強硬派のポル・ポト軍総参謀長タ・モクもタケオ州の富裕な木材業兼業農家の息子である。
ポル・ポトは1975年4月に誕生したポル・ポト政権について、後に「2000年以上に及ぶ歴史の中で本当に初めて底辺の人民が国家権力を手中にした」と語ったが、真っ赤な嘘だ。自分たちは底辺どころではない、最高学府を出てフランスに留学し、王家にも近いというカンボジアの中のエリート中のエリートによる政権だった。そして彼らはほとんどが元教員だった。
ポル・ポト政権は知識人を目の敵にして拷問し、殺した。その犯行に加担したクメール・ルージュの残党の多くが、先に述べたように、カンボジアで今も権力を握っている。カンボジアで「政治」に対する一種微妙な空気を感じる一つの原因はそんなところかもしれない。
フランスからの独立をかけベトナムが勇敢に戦ったインドシナ戦争、カンボジアでのロン・ノルによるクーデター。それに対抗するためクメール・ルージュはベトナム共産党勢力と共闘したが、自分たちが権力を握ると手のひらを返すようにベトナムと戦争を開始。裏には中国のポル・ポト支援があった。また、カンボジア和平でも国連常任理事国が主導する「ポル・ポト派の悪行に目をつぶる」和平案も検討され、これもポル・ポト派免罪に貢献した。
カンボジア和平では最後に日本がポル・ポト派抜きのカンボジア和平案を提案し、紆余曲折を経てその線で実現にこぎつけたが、そうしたカンボジアの歴史にこびりついて離れないのが「ポル・ポト政権の評価」、「大虐殺をどう総括するか」という重い問いであり、これはまだキチンとした答が出ていない問題なのだ。
国際政治といえば、当然、ベトナム戦争、中越紛争などの裏で色濃く浮かぶ「アメリカの影」も意識しなければならない。毛沢東やスターリンの大虐殺に比べれば人数は少ないとはいうものの、800万人足らずの国民の約4分の1を殺したポル・ポトの「歴史的大虐殺」の評価は、そうした複雑な歴史、国内政治情勢、国際関係の中で今でも真正面から論じるにはあまりにも熱すぎる問題なのだろう。
しかし、ポル・ポトが実は引っ込み思案で思索の好きなおとなしい知識人だったという事実、つまり「大虐殺犯は普通の人間だった」という事実は、20世紀という奇妙な世紀を象徴する恐ろしい“歴史の真実”なのかもしれない。
◇
午前9時すぎ、トゥール・スレンから歩いてホテルに戻ると、すでに1階のフロントにダニーさんの会社で働いている藤田季宏さんがトヨタのランドクルーザーで迎えに来て待っていた。
プノンペン平塚七夕祭りは多くの市民に来てもらうため開催日を土曜と日曜にしたため、救急車の引き渡し式も当初は祭り会場で土曜日に行う予定だったのを日曜日に変更。土曜と日曜はどの国も休日で、カンボジア要人にアポイントメントを入れるわけにもいかないので、来賓として招かれた七夕祭りの開会式出席と同じ会場で行う予定だった引き渡し式への出席以外は、プノンペンの街中を見て回ろうかと相談していたら、ダニーさんが気を利かせて市内案内のために長距離バス運行責任者の藤田さんを差し向けてくれたのだ。
土曜日とあって渋滞はさほどでもなかった。ホテルからすぐのモニボン通りを北上し、セントラル・マーケットを道路右手先にちらりと見て、そのまま直進。埋め立てられたボンコック湖を左手に見て、広い道路の突き当りを右に曲がって、Uターンするように次の道を南に進むと、古刹ワットプノンが見えてくる。そこで方向転換してトンレサップ川沿いの道を南下すると王宮である。回り道をしてもホテルから車で約20分というところか。
入場券を買って中に入る。中国人観光客が目立ったが、日本から来た観光旅行客も結構いる。アンコールワットに行く途中にプノンペンで一泊し、ワットプノンや王宮、セントラル・マーケットを観ていくのだろうか。
王宮は金色に輝く建物が何重にも重なり、荘厳そのものだ。各時代の王の墓もある。シアヌークのモニュメントは今作っている最中だった。王宮だから、シアヌークへの否定的な評価は文字になっていないのだろうが、青年時代のシアヌークがポル・ポトたちの行き過ぎを看過せず、懲らしめておけば、あのような大虐殺は起きなかったかもしれない。シアヌークの歴史的評価もまだ確定するには早すぎるのだろう。大きな問題ほど、評価の確定には時間がかかるとみえる。
時間をかけて王宮をじっくり見学した後、藤田さんの車でさらに南に行くと、大通り沿いにイオンモールが見えてきた。
◇
イオンモール・プノンペンは日本のイオングループがプノンペンのトンレサップ川の川べりに作った大型ショッピングセンターだ。あまりの大きさにびっくりしてウィキペディアで調べると、オープンは2014年6月。中核店舗であるスーパー「イオンプノンペン店」と約190店舗の専門店(日本からの出店テナント49店舗)、国内最大のシネマコンプレックス、スケートリンク、約1200席を擁するカンボジア最大のワールドフードコートやレストラン、ヘアーサロン、リラクゼーション施設、アフタースクール(ダンス、料理、英語、キッズジムなど)などで構成されるカンボジアで最大規模となる地上4階建てのショッピングモールである、と書いてあった。
イオンモールの調べでは1号店の周囲5㌔以内に約70万人の人が住み、このうち月収入400ドル(約4万円)以上の中間所得層が78%を占める、という。富裕層が住む地域なのだ。開店記念式典にはフン・セン首相や岸田文雄外相も出席したそうだ。
ここで昼食をとった。店員に日本語は通じないが、簡単な英語は理解できるので、十分に意思が通じる。日本へのお土産をどうしようかと考えたが、結果的にほとんど、このイオンモールで買ってしまった。セントラル・マーケットなどに比べると割高らしいが、日本人観光客の扱いに慣れた店員さんが多く、安心できるから、日本からのお客がよく利用するそうだ。
◇
夕方、イオンモールの見えるトンレサップ川沿いの空地に七夕の飾り付けが明るく浮かび上がり、いよいよ第1回「平塚七夕 in プノンペン」が始まった。ずらりと並んだ屋台の端に高さ1㍍ほどの舞台がしつらえてある。
司会は涼やかな浴衣を着た日本人の若い女性、内田麗奈さんと、同じく浴衣が似合うカンボジア人の若い男性。最初に舞台に上がった野崎市議(お祭りの実行委員長)は感無量という表情で「カンボジアは若い国です。平均年齢が23、24歳とうかがっています。七夕祭りを通じて、日本とカンボジア、日本の若者とカンボジアの学生が力を合わせて町おこしができれば嬉しい」と挨拶。夫婦そろって浴衣姿で現れた堀之内秀久大使は10月に赴任したばかり。式の挨拶は、紙のアンチョコを見ながらではあったが、日本語とクメール語の2カ国語で自分で通訳しながらのスピーチ。クメール語が流暢だったのだろうか、祭り見物で屋台に群がっていたカンボジア人たちから大きな拍手が起こっていた。
来賓挨拶の後は、プノンペン在住の日本の子どもたちによるダンスや日本語学校に通うカンボジア人による合唱、歌の独演などが続いた。イベントが終わった頃にはあたりはすっかり暮れていたが、煌々とライトで照らされた広場では金魚すくい、駄菓子屋、焼きそばやラーメンなどの屋台にいつまでも多くの親子連れがつめかけていた。
私は寺田事務局長に教わって、竹筒にもち米や豆、砂糖を入れて蒸し焼きにしたものを買ってホテルに戻ってから食べたら、美味しい。もち米なのですぐに腹一杯になる。和菓子みたいな味で、竹のほのかな香りが心地良かった。(つづく)
長田 達治(おさだ・たつじ) 1950年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。毎日新聞社記者、一般社団法人アジア調査会専務理事を経て、2015年7月より一般社団法人日本外交協会常務理事。 |